イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

悪人

ヨハネ・ヤジロー

 

 人間はみんな悪人だ、という思いが宗教的な感情。その人間を造ったのは万物の創造主とされる父なる神様。そこで悪事をなかったことにするために、古代から定められた儀式が生贄(いけにえ)や犠牲。その最高の犠牲が十字架にかかられたイエス様。身代わりの犠牲の十字架。そうなのですが、学問のある立派な人は、意外にも、その感情がわかっていない。その的外れな理解は悪いので、宗教的には罪に相当。それで、その立派な人は神様の目から見れば悪の自覚症状がない悪人。つまり、偽善者。善人の仮面をかぶった最も悪質な悪人を偽善者といいます。

その箇所をマタイによる福音書9章9~27節は語っています。

「そして、そこから行かれると納税所に座っている人をイエスは見られた。マタイと呼ばれている。(このマタイは言い伝えによるとマタイによる福音書の記者)彼を呼ばれる。「私について来なさい。」

すると、彼は立ち上がってイエスについて行った。

そして、彼の家で食事をしておられると、見よ見よ、多くの徴税吏やならず者たちがやって来て、イエスや弟子たちと共に食卓についた。

(このならず者は直訳すれば罪人。この罪の由来は「的外れなことをする」ような言葉から転じたもので、日本語の持つ罪の意味よりは広いと思われる。しかし、この罪人には、神様の戒めを忠実に守らない俗世間によくいる人々も含まれている。それで、偽善者の目から見たような感覚で、ならず者と訳した。しかし、現代の日本では普通に見かける人々も含まれるような「ならず者」という感じ、無法者と訳すこともできるかな。徴税吏は過酷な重税の時代であったので嫌われていた。)

これを見た法師派たち(ファリサイ派:律法学者(法師)を中心とする。聖書に書いてある神様の戒律を厳格に細かく解釈して守る戒律主義派で上層階級の祭司派などと対立しながらも政治的な力を持っていた。)。彼らはイエスの弟子たちに言った。

「何で、税金取りやならず者たち(世俗派)とあなた方の先生は食事をするのか。」

これを聞いてイエスは言われた。

「健康な人には医者はいらないよ。いるのは悪人だよ。それで、どうしてかは行って(聖書から)学びなさい。『私は憐れみを欲する。犠牲や生贄(いけにえ)にあらず。』とは。私は正しい人を招くために来たのではない。悪い人のためだ。」」

まぁ、それで、善人(偽善者、善人仮面)が往生(天国に行ける)のなら悪人は確実に天国に行けることになりますか。

過労死にならないコツ

 ヨハネ・ヤジロー

 

 過労死にならないコツは休むことだと誰でも思う。また、休むこと以外にもコツがいくつもあるかもしれない。その中で、まさかと思うコツがある。若くて経験不足ながら働いていたときに知った。

命じられた仕事を重荷と感じていた。その抱えているストレスには先が見えない不安もあった。そのようなとき、知っていたイエス様の言葉をふと思い出した。

私は本当に追い詰められていたので、その言葉を信じて行うことにした。自分の頭で思っていた考えと逆の行動をすることの選択だった。そのイエス様の言葉はこのようなものだった。(マタイによる福音書5章41節)

「一里(マイル)行かせようとする人とは、その人と一緒に2倍行きなさい。」

つまり、「仕事を命じた人と一緒に」命じられた仕事の「2倍」をする覚悟を持つことだった。この言葉を実行するには勇気がいった。一緒に行く相手は命令をした人だ。それで、色々と考えるよりもイエス様の言葉を信じることを優先した。行動した。

結果は、一人で一里行くよりも一緒に行く方が倍の距離行く勘定だが楽に行けた。

仕事を一人で抱え込まないで、仕事を命じた人に聞いて教えてもらうこともした。そのようにして、仕事を命じた人共に一緒に仕事をした。この方が結果を出しやすい。中でも、おもしろかったのが、無理な仕事をもらったときのことだ。一緒に仕事をするように動けば、仕事を命じた側も気が付く。無理な仕事を命じた、と。それで、やめ。

 一人で悩み苦しむよりも、その悩みや苦しみの源泉となっている人と一緒に行動をすることだ。そうすると結果が出やすい。めどが立つ。それで、精神的には楽になる。

頭も疲れにくい。仕事を命じた人も、その人自身が疲れないために休みを与えてくれることもある。一人だと堂々巡りをしていては一里も行けないことがある。過労の原因となる。

また、一人では難しい、やれないと自分自身が謙虚になることは必要だ。一人でやるのではないから謙虚でないと人は一緒につきあってくれない。知らないことが多い、できないことも多いという謙虚さは必要だ。そして、悩みやストレスの源泉である人と一緒に行くことだ。

 

パッチ(継ぎあて)

 

 

 

  幼いころの日本は物不足だった。それで、傷んだ服や靴下は今のように捨てられることはなくパッチ(継ぎあて)をすることにより長く使われていた。

そのとき、継ぎあてをする布は同じくらい使われた古いものが良かった。見た目に不自然さを感じないだけではない。新しい布は洗ったときに縮む割合が大きかったからだ。今は縮む割合が少ない布が多いかも知れない。そのようなことに関するイエス様の言葉がある。このような言葉だ。(カッコ書きの部分はギリシャ語底本にはない。読みやすいように挿入した部分)

「誰も(まだ洗っていないような)真新しい布で、古い服の継ぎ当てをしない。その継ぎ当てが(洗うことで縮んで)服を引き裂き、破れがひどくなるから。

 また、新しいワインを古い皮袋に入れない。(当時、皮袋は水、油、ワインを入れる容器として使われていた。)

そんなことをすれば、皮袋は引き裂かれる。(新しいワインが発酵していくときに皮袋に圧力を与えるので、弾力性のなくなった古い皮袋はもたない。)

ワインは流れ出る。また皮袋は(破れて)だめになる。そうするより、新しいワインは新しい皮袋に入れる。そうすれば、両者ともに安全に保存される。」

 このイエス様の言葉を思い出したのは、ある小さな非営利団体の会計に関わったからだ。会計の計算書が説明責任を十分に果たしていないと思った。収入と支出のお金の流れが容易に追跡できなかった。それで、部分的な改善を試してみた。パッチをする感覚だった。うまくいかない。パッチという小細工では新たな破れを生じさせるからだった。それで、全く新しい会計スタイルに変えた。新しいワインは新しい皮袋にいれることにした。それで、追跡調査が容易になった。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは会計を担当していた。財布を預かっていた。ヨハネによる福音書12章6節にあるように着服をしていた。会計の計算書は、このような着服を防ぐとともに着服が直ぐ見抜けるように作られなくてはいけない。金の流れが容易に追跡可能な形を作る発想で苦労をしたときに浮かんだのが上記のイエス様の言葉だった。

 

 

 

楽しく働く

                   ヨハネ・ヤジロー

 「働くのは重荷を背中に担いで運ぶようなものだ」と感じた経験は、誰にでもあるでしょう。

マタイによる福音書11章28~30節(ギリシア語新約聖書ネストレ・アーラント28版:底本)にはこのように書かれています。

「さぁ、みんな来なさい。重荷を(ずっと)負って疲れている人よ。休もうよ。私と重荷を負ってみなさい。知るよ。私がやさしくて謙虚だ、と。身も心も安らぐよ。私との重荷は負いやすいから、軽くなるから。」

 現実には仕事での重荷そのものの質や量は変わらない。しかし、イエス様のあらゆる言葉を思い出しながら重荷を背負いますと軽くかつげるようになる不思議があります。

また、イエス様の「休もうよ」という言葉は「休ませてあげる」とも訳されている言葉ですが、この言葉は「ちょっと一休みしましょう」という雰囲気を持つ言葉です。

「三時のおやつの時間だよ。ショートケーキを食べ、お茶を飲みましょう。」というような雰囲気。また、15分程度、短く寝てもいい雰囲気。その方が明日に疲れを残さないだけでなく、当日の仕事の量や質も向上するものです。疲れの蓄積による過労死などはない。

さらに、イエス様のような上司が一緒に仕事をしてくれて、やさしく親切で、その上司がへりくだった態度であったならば、もっと、同じ重荷でも事故もなくさらに遠くへと運べるものです。実力があまりない者同士でも、このような感覚で仕事をすると実力が

ある者同士の組み合わせとあまり変わらない仕事ができるものです。それは、1たす1が3以上になる奇跡が起きるからです。実力があるもの同士の組み合わせでも部下を奴隷のように扱えば、1たす1は2以下になりやすい。

奇跡というのはイエス様のような愛で互いに愛し合うと起きるものです。もしも、疑問に思う人がいるなら、ぜひ、試してみてください。愛の奇跡は身近にある、すぐ手の届く所にあると知ります。すると、イエス様の言われる天国もそうだと悟ります。

 

ゆるす

ヨハネ・ヤジロー

 

「ゆるす」ということは大切だ。人にできることで「ゆるす」ことは多くの問題を解決することになる。「ゆるさない」とか「ゆるせない」という言葉は、よく耳にする。

でも「ゆるす」という言葉は聞く機会が少ない。「ゆるす」ことができるのは神様だけだと思っている人がいる。

 でも、「ゆるす」ことで人の世界は円滑に回っていることは注意してみれば身近には見られることだ。いたずら坊主の「いたずら」を母親がゆるしている姿など。

 ふと思い出す。マタイによる福音書9章1~8節を。こう書いてある。()書きは説明用の挿入。

 

 それから、イエスは舟に乗り込まれ(ガリラヤ湖を)渡られて、ご自分の町に帰られた。すると見よ、イエスのもとに(体がマヒした状態の)中風の人が担架(たんか)で運ばれてきた。イエスは彼らの信仰を見られた。その中風の人にイエスは言われた。

「安心しなさい、(我らが同胞、我らの先祖イスラエルの)子よ。あなたの過ちや罪はゆるされている。」

すると見よ(何と)、ある(ユダヤ教の)法師たちはつぶやいた。「この罰当たり。」

するとイエスは彼らの思いに気づかれた。言われた。

「どうして、心の中で悪く思うのか。では、どちらが言いやすいのか。『あなたの過ちはゆるされている』というのと『起きて歩け』と言うのと。では、示そう。人の子に過ちや罪をゆるす権威が地上であることを。」

そして、イエスは中風の人に言われた。「起きて、担架を取れ、家に帰れ。」

すると、彼は起きて家に帰った。それを見た群衆は、おそれた。神様をあがめた。このような権威を人に与えられたことを。

*「人の子」は「アダムの子」とも訳せる言葉。人類の始祖アダムの原罪、つまり、人は生まれながらに過ちや罪を犯す性質があるというイメージを持つ言葉。その人には、また、人の罪をゆるす力があるというイエス様の教えは罪や過ちに苦しむ人を積極的に救う言葉だった。

 

元気に生きる

                    ヨハネ・ヤジロー

 元気に生きていきたい。ピンピン生きてコロリと、ピンピンコロリと死にたい。

ある人は言う。人間の象徴アダムは農夫だった。死ぬまで農夫をやっていればピンピンコロリと死ねる。それで、人はエデンの園を追い出されて額に汗をかきながら生きていく定めとなったのか。人間、体を動かさないでいると体の機能が衰えていく。介護を受けている人々を長年みてきて、ふと思った。それで、汗を流さない生き方は危険だ。汗を流さないで結果を出す手段に嘘(うそ)をつく、という手段がある。

つまり、汗を流さない賢さに走ると人は嘘(うそ)をつきやすい。楽だから嘘をつく。しかし、追放が待つ。地道に汗をかかないで楽園にいるかのように稼ぐには嘘が手っ取り早い。しかし、嘘はいつかばれる。それで、天におられる神様は偽証するなと人を戒められたのだろうか。この戒めを破ると偽証罪になる。この罪から来る本当の罰は元気に生きていけないことだ。最近の国会のテレビ中継による嘘の追求などを見て思う。最初の勢いが失せてきて目や言葉が死んでいく。汗をかかないで短時間で楽に金儲けをするには嘘が最短コースだ。嘘で何億円も稼げたことが国会で証明されていく。しかし、嘘の結果なのだ。いくら頭が良く芝居が上手でも、嘘はばれるものだ。嘘に忠誠心などあるものか。あるのは出世とか金の見返りという下心だ。昔の武士の忠義も安定した報酬保障を基礎としていた。それで、その保証があやしくなるとテロや流血の幕末という時代が訪れた。ここに勝てば官軍というよりはサバイバルがあった。いや、正確には、生き残った者が勝利者。古代から変わらぬ原則があった。

 戦わなくても、太陽の下で汗をかく仕事は何処にでも昔からある。元気に生きていく最短コースなのだろう。介護で苦しんだことのある人なら誰でも知っていることがある。体が動かなくなるから介護だ。汗をかく道を行くべきだ。それでも、人は楽な道を選ぼうとする。禁じられた実を手に取って食べたがるものだ。おまけにパートナーまで食べさせる。こんなことを書いている自分自身もアダムの自覚がある。他人を裁く資格など私にはない。

みんな、どこかで罪を犯すことがある。イエス様は不倫をしていなくても思うだけでも罪だ、と言われた。そんな芝居やドラマが今も昔も人が見ていることで実証している。

つまり、みんな罪人だ。どうして、人は罪を犯すものなのか。この罪の定義は古代からの伝統によれば、神様の目から見て、正しいことをしないことが罪だ。神様が基準の正義に反すれば罪なのだ。刑務所の中に入れなければ・・・そんな、ずる賢い基準の正義ではない。つまり、人はどこかで罪を犯す者なのだ。嘘が通用しない正義だ。人は相手の心が見抜けないときがある。しかし、神様は人の心を見られる。嘘が通用しない。芝居もばれる。

 そのように思っているときに聖パウロが書いたローへの信徒への手紙を読んだ。

5章1節はこのように書いてある。

「それで、主イエス・キリストを通して神様を信じることで正しいとされて、安らぎを得て元気になる。」

 これは、自らの罪を認めて、救いの神様(罪を拭い去ってくださるキリスト)に救いを求める信仰で救われること・・・それだけが正義とパウロは言っている。誰もいない世界で一人で生きている分には罪は存在しない。しかし、その世界に異性が来れば・・・罪は忍び寄る。欲が成長すれば罪を犯しやすい。とにかく、体がピンピンしていることは健康的には良いことなのだけど・・・罪に負けやすくもなる。

 異性に限らないけれど、その関係が多いことは、思うだけで罪なるというイエス様の言葉から推察がつく。旧約聖書の世界の中で最高の英雄ダビデも罪を犯したのは異性関係であった。様々な罪の温床となりやすいのが異性関係だ。アダムのときからそうであった。

豚と多神教

                             ヨハネ・ヤジロー

 

 豚は多神教を暗示します。ローマ皇帝アウグストゥスが「余はヘロデの息子であるより豚であった方がましだ」という言葉はイエス様が生まれる少し前にヘロデ王が妻のマリア妃(ミリアム王女)を殺しただけではなく、彼女との間にできた息子たちも殺したことに由来します。ヘロデ王ユダヤ教徒ですので豚は食べません。つまり、豚を殺さない。同じ一神教イスラム教もそうですが。このヘロデ王ユダヤ人の王として生まれた幼子イエスの命を狙ってベツレヘム周辺の幼児を皆殺しにした、とマタイは福音書で語っています。当時のパレスチナローマ帝国支配下にあります。ユダヤ人から見れば異邦人、そのような多民族が多い異邦人地区では豚が飼われていました。豚は人の排せつ物を食べたりしますので、伝染病に感染しやすい。つまり、悪霊の巣になりやすいこともあり、ユダヤ人から忌み嫌われていました。また、そのような地区のユダヤ人は暴行や虐殺も受けやすい。

 そのような事実を生々しく福音書は描きません。醜悪な歴史的事実をファンタスティックに描きます。たとえば、マタイによる福音書8章28~34節です。

「 それから、イエスが(ガリラヤ湖)対岸にあるガダラ人地区に着かれた。すると、悪霊に憑(つ)かれた二人が墓から出てきておりイエスに出会った。二人は凶暴で誰もそこらの道を通れないほどであった。すると彼らはわめいた。こう言う。

「何の用で、神の子よ、ここに来られた!?まだ早いよ、我らを拷問にかけるのは。」

そのとき、彼らから離れたところに飼われている豚の群れがいた。それで、悪霊どもはイエスにお願いした。こう言う。

「もし、我らを追い出すのなら、あの豚の群れの中に追い出してください。」

するとイエスは彼らに言われた。

「帰りなさい。」

それで、彼らは出ていき、豚の中に入って行った。すると見よ、豚の群れが崖(がけ)から下って湖の中に突進した。そして、水の中で死んだ。それで、豚飼いたちは逃げた。町に行き、一部始終を悪霊に憑かれた者たちのことも含めて語り伝えた。すると見よ、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスを見ると、この地区から立ち去るようにお願いをした。」