イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

勇気と信仰

 ヨハネ・ヤジロー

 勇気のない信仰はもろい。何かあると大騒ぎをする。個人的にも、そのような恥ずかしい経験が私にはあります。「小心というか信心が小さい、信仰が薄い」と想定外のことが起こったときに思います。

 評判の良い人の周りには、その人について行く人が多い。しかし、ついて行ったものの想定外の危機が起きると大騒ぎをする。ご利益(りやく)だけがあるわけではない。頭でわかっていても動揺するときがあります。まぁ、自分の小ささを自覚するのは次のような出来事が起きたときです。

 琵琶湖のように大きなガリラヤ湖を舟(小さな船)で向こう岸にイエス様は行こうとされます。

マタイによる福音書8章23~27節にはこうあります。

「それから、イエスが舟に乗り込まれると弟子たちはイエスについて行った。

ところが、湖がしけてきた。(ガリラヤ湖は山から吹き下ろす突風が生じます)

舟が荒波に呑(の)まれそうだ。なのに、イエスは寝ておられた。弟子たちはイエスのそばに来て起こしてイエスに言います。「主よ、助けてください!死にそうです。」

すると弟子たちにイエスは言われた。「何がこわいのか。信心(信仰)が小さいよ。」

そして立ち上がると風や湖をしかられた。すると大なぎになった。それで、人間である彼らは驚いた。そして言う。「どこから来た方なのか。風も湖もこの方の言うことを聞くとは。」

 キリスト教の神様は天地万物の創造主ですから・・・しかし、それ故に、真理や真実そのもののお方です。地形的にガリラヤ湖には突風が起きても不思議ではない。人間はある出来事に偶然出くわす天地に住んでいる。そう、地震津波にある日突然出くわしても天地がそのように造られているのだから仕方がない。いつも幸運でいるわけではない。まことの勇気がない信仰は、吹けば飛ぶような小心者の持つような信仰。しかし、その自分の小心さを気にすることはない、と思うようになった。

エス様について行った弟子たちと同じレベルの信仰なだけだから。自分の信仰は。

動揺して醜態をさらけだして騒いでも、自分の信仰は弟子たちを同じレベルと思えば、何となく自分の過去が赦せてくる。騒いだ弟子たちの小心を赦せば自分も赦される。

 

休憩

                   ヨハネ・ヤジロー

 疲れた時は休憩する。労働に関する法には詳細に書かれてあり、その詳細も時代や国の実情と供に変化していきます。その法の源流で今も生き続けているのは、イエス様の愛に基づく言葉です。

マタイによる福音書11章28~30節です。新共同訳にはこう書かれています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

2千年ほど前の言葉の文字を日本語に逐語的に翻訳しているので、時代の変化もあり、現代の日本人にはピンと来にくいかもしれません。特に都市で生活する日本人には。

それで、同じようにで底本にある語順を追いかけながらから日常的に話されている調子で訳して見ました。

「さぁ、みんな来なさい。重荷を負って疲れている人よ。休もうよ。私と重荷を負ってみなさい。知るよ。私がやさしくて謙虚だ、と。身も心も安らぐよ。私との重荷は負いやすいから、軽くなるから。」

 まぁ、現実には重荷そのものは変わらないです。しかし、イエス様のあらゆる言葉を思い出しながら重荷を背負いますと軽くかつげるようになる不思議があります。それはイエスの愛によるものです。

また、イエス様の「休もうよ」という言葉は「休ませてあげる」とも訳されている言葉ですが、この言葉は「ちょっと一休みしましょう」という雰囲気を持つ言葉です。

労働関係の法律で言う休息時間の確保とでも言いますか。軽く言えば「三時のおやつ」ですか。短く寝てもいい。その方が労働効率が良くなることは証明されています。働いている人にとっての上司(ボス)がイエス様のような人だったら過労死などはない。現実には不運なときがあります。それで、このイエス様の言葉が生きてきます。

 

犠牲による愛

                        ヨハネ・ヤジロー

 

 イエスの愛は十字架に代表される犠牲による愛。これは頭や心で思っても簡単にできるものではありません。マタイによる福音書8章16節~22節を読み、思いました。

その16~17節。

「それで、夕方には、悪霊に苦しむ多くの人(病人)が、イエスのもとに連れて来られた。イエスは言葉でそれらの霊を追い出された。苦しんでいるすべての人(病人)を治療された。これは、次のように予言者イザヤを通して告げられた言葉が成就するためであった。『彼は我らの弱さや病を背負い、我らからそれらを取り除いた』。」

 すると、イエス様は人間の肉体を持っておられたので多くの病人を治療して疲れられた。ここの参照聖句イザヤ書53章4節は「まことに我らの病や痛みを彼は背負った。すると我らは彼のことをこう思った。神に打たれて彼は苦しんでいるのだ。」。

 つまり、多くの人は、犠牲による愛に気づかないで、イザヤ書にあるように思いやすい。イエス様の愛は、人からすぐ評価されたい、と思っている人にはできない。疲れを覚えやすい。

 それもあり、その18節にはこうある。

「さて、イエスは周りの群衆を見られると(ガリラヤ湖の)向こう岸に(船で)行こうと命じられた。」

 そこに、イエス様の弟子を志願するユダヤ教の学者(教師、法師)が現れる。

その19節。

「すると、ある法師がイエスに近寄って来て言った。『先生、どこでも、ついて行きます。』」

エス様は彼に、ついて行きます、と言っても実際は旅を住処とするようなもので簡単なことではないよ、と言われる。その20節。

「キツネには穴がある。空の鳥には巣が、だが、アダムの子(イエスの自称)にはわが家がない(草を枕にするようなもの)。」

アダムの子は人の子とよく訳されていますが、創世記に出てくる最初の人アダム、エデンの園(楽園)から苦労して働かなくてはいけないこの世に追放されたアダム、神様が最初に造られた人(神の子)のイメージもあり、ここではアダムの子と訳しています。

 その21~23節には弟子の心構えというか弟子としての優先順位。

「また、別の弟子が言った。

『主よ、最初に父の葬式をするために行かせてください。』

ところが、イエスは言われた。

『私について来なさい。死者の葬式は死者たちにさせなさい。』

それから、イエスが船に乗り込まれると弟子たちはイエスについて行った。」

 イエス様について行くには、多くの人には当たり前に存在することを犠牲にすることがありますか。八方美人はできない。悩むより捨てることですか。その優先順位は、イエス様の言葉から思えば、生きている人を優先することです。

最近、少子高齢化でお墓の問題が生じています。我が家から墓守がいなくなるとことが、よく話題になっています。

しかし、神様の優先順位は生きている人が上です。それは、キリスト教が死者の復活を信じているからです。

 

 

 

 

身代わり

                         ヨハネ・ヤジロー

 働き方について細かな法律があり、また、そのような法律ができるそうだ。中身が複雑で、もっともらしく聞こえる。しかし、人にはそんなに複雑な生き物なのだろうか。

 定期的に休めれば、過労による問題は何も起きない。そう思う。そのことは聖書に一週間に一度定期的に休む安息日の定めがあることからも何千年も前からよく知られていることだ。日は上り日は落ちる。その間に労働を含めて、人は何もかもして、一週間に一度定期的に休めば、過労による問題は起きないように人の体は造られてきた。すると一日に8時間以上働くのは人間の体にとって危険だ。それなのに、どうして、働き方に関して細かな法律が必要なのだろうか。働かせる側に免罪符を与えるような法なのだろうか。それに、金持ちになる確実な方法は金持ちの家に生まれることだ。しかし、金持ちの数は昔から少ない。すると、一人の人間が過労するまで働いたとしても金持ちになれる確率は極めて少ない。それよりも、多くの人間が過労状態になるように働かせる立場になった方が、金持ちになる確率が高いことになる。

 アダムとエバしかいなかった時代には、金持ちはいなかった。王様も貴族もいなかった。奴隷もいなかった。しかし、アダムとエバの間に子供ができた。何人も生まれては何代も続いた。すると、いつの間にか金持ちや王侯貴族が存在するようになり、それに付随する奴隷またはそれに近い人々がはるかに多く存在するようになった。

金持ちを存在させるには多くの貧しい人々が必要だ。統計が昔から示している。

働き方の法律を新しく定めるために、データ処理の小細工などをしても、所得分布のデータはそれほど変わらないだろう。金持ちから見ればわずかな金のために、過労死等をしないことが賢明だと所得分布のデータは示している。

 また、世の中には貧乏くじを引かされる人間の数の方が多いことを知る。すると、多くの人は天に叫ぶ。最初の人アダムを造られた神様に叫ぶ。

「神様、神様、なぜ、私を見捨てた」と。

 その万人の叫びを天に届けるには、神様に届けるには身代わりの叫びが必要だった。その方の名はイエス

 イエス様は悪霊や病などに苦しむ人々を治療された。いやされた。人の弱さや病を背負われ人からそれらを取り除かれた。それなのに、人々はイエス様を十字架につけた。

「他人を救ったのだ。今度は自分を救え」と人々はイエス様を十字架にかけながらイエス様をののしった。ところが、私もこのような人の持ちやすい妬(ねた)みがあることに気が付いたときがあった。自分が妬みのために判断を誤った過去に気が付いたときがあった。イエス様を十字架につけたのはユダヤ人であって自分ではない、と思う人は多いかもしれない。しかし、人には妬む心がある。誰が、その妬む心が自分にはないと言い切れるのだろうか。人は誰もがイエス様の十字架のそばで十字架にかけられた罪人のようなものではないだろうか、と、自分の中にある妬み心の存在に気付いたときから思った。また、イエス様を十字架につけろと叫んだ人々ではないだろうか、とも。

そう、自分は簡単に罪人の仲間になれる存在なのだときがついた。そう、自分に中にある妬み心で、イエス様を当時の人々は十字架につけたのではないかと思った。そこにはユダヤ人限定の世界はない。万人の世界が存在する。妬みは怖い。

 ただ、そこに救いがあった。イエス様の十字架は予言者イザヤによる言葉が成就するためであったと。マタイによる福音書8章17節には「彼は我らの弱さや病(やまい)を背負った。そして、我らからそれらを取り除いた」とある。

また、イザヤ書53章4節にはこうある。

「まことに、彼は我らの弱さや病を背負った。

すると我らは彼のことをこう思った。神に打たれて苦しんでいるのだ、と。」

 多くの人はイエス様の十字架を見て勘違いをするものなのだろうか。

自分の身代わりのためにイエス様が十字架にかけられたと気が付かないで。

それで、イエス様はこう叫ばれた。

「わが神、わが神、なぜ、我を見捨てた。」

天地は暗くなり、人と神様とを隔てる神殿の聖所の幕が真っ二つに裂けた。

神の子イエス様の叫びが、人と神様とを隔てていた幕を取り払われた。

エス様の身代わりが成立した。救いの願いが成就した。イエス様すなわちキリスト(メシア)としての本来の念願が成就した。

そして、明日がイエス様の十字架からの復活を祝う日曜日。安息日は土曜日から日曜日へとキリスト教では変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過労死

                         ヨハネ・ヤジロー

 キリスト教の教会に日曜日に来る人々は休むために教会に来ている。

私の楽しい休み方は、教会から人が帰って行ったときにある。誰もいない礼拝堂で十字架を見上げる。瞑想(めいそう)をする。迷走であってもかまわない。祈りにならぬ祈りでもキリストの神様は聞いてくださる。その瞑想のときがほんとうの休みになる。

それは、教会堂が大きいことや美しいことも関係がない。小さな日本のごくありふれた民家であっても良い。

 日曜日(ユダヤ教では土曜日)を休日とするのは一般的だが、キリスト教では、その休日を安息日と呼ぶ。安息日を聖書の原語ヘブライ語ではシャバットという。それが動詞で使われると「休む、座る」とかいう意味に変化する。座って休めるように教会には椅子が置いてある。

 さて、テレビや新聞などで過労死という言葉を最近よく見聞きする。

過労死問題は何千年も前からある。そのこともあり、モーセに率いられたイスラエル人が集団でエジプトから脱走したほどだ。過労死に対処するためにユダヤ人の先祖であるイスラエル人はモーセを通して神様から戒め(十戒の一つ)を授かる。安息日の戒めだ。

それをヘブライ語を見つめながら、少し日本語らしくはないが、感じたとおりに日本語に訳してみた。出エジプト記31章12~17節だ。()書きの部分は読み替えなので参考のようなもの。

 

 主(我らの神ヤハウェ)はモーセにこのように告げられた。

「あなたはイスラエル人(イスラエルの子ら、子孫)にこのように語りなさい。

『必ず、私の安息日を守るのだ。代々(よよ)にわたり、私となんじらとの間の証印(しるし)なのだ。主なる私が、なんじらを聖とする方であると知るためだ。

なんじらは安息日を守るのだ。安息日はなんじらにとって聖なる日だ。安息日を汚すと死ぬ、死ぬのだ。(死刑になるのと同じだ。)安息日に仕事をする者はみんなだ。

その者の命は民の中から断たれるのだ。六日間、仕事はするものだ。そして、七日目は安息日だ。主による完全休養の聖なる安息日だ。安息日に仕事をする者は誰でも死ぬ、死ぬことになる。(死刑になるのと同じだ。)イスラエル人は安息日を守るのだ。安息日に休むのだ。代々にわたる永遠の契約として。

私とイスラエル人と証印(しるし)、それは永遠だ。それは、主が六日間で天と地を造られ七日目に仕事(みわざ)を休まれ休養されたからだ。』。」

 

休めない状態を奴隷という。奴隷には衣食住は与えられる。人はパンだけで生きているのではない。休めないでいると、心が殺され体まで殺されて行く。そして、奴隷に衣食住を与えている側は長生きをする。十分に休養する余裕があるからだ。アダムとエバの時代に格差があったのか、と 叫ぶ人たちが増えるといけない。社会問題が大きくなると戦争状態に突入していくことになる。そうならないことを祈ります。

風と悪霊

 「病(やまい)は気から」という言葉があるように心と体の関係は連動しています。心が病気になると体も病気になりやすい。また、体が病気になると心も病気になりやすいものです。最悪は両方ともに病気が進行することです。それで、薬でも飲んで、強制的に体を休めて、つまり、ぼおっとしたしたような体の状態に持っていて、自然治癒力に頼ってみるという方法が取られることがあります。心が主な原因だとかかっている病気はなかなか良くならないものですが。

しかし、今の科学や技術はデータを取ることを基本としているため、どうしても、データが技術的に取りやすい所からデータを取り、そのデータをもとに物事を考えます。

心が原因の場合は、医者との信頼関係が弱いと患者は恥ずかしくて言えないようなことが言えないため、思い出したくないことを思い出せないため、それに、原因がわかったところで、そのため、ひどく悪化する場合もあります。

そのため、一部のデータだけに頼り、木を見て森を見ずということになると、肝心な点から外れて、判断を間違えることもあります。意図的に人々をある目的に誘導しようとするデータのとり方は政治や行政の世界ではありがちですが、これは、詐欺ですから、ここでは考えません。 

すると、2千年ほど前に生きていた新約聖書時代の人々は、悪霊という言葉をどのように使っていたのだろうかと思いました。

風邪(かぜ)は万病のもとと言いますが、この風邪にかかることを悪霊に取りつかれるというような表現をしていたようです。しかも、昔の人々は心と体と分離して考えず、つまり、データ主義の副作用がなかったために、風邪とか悪霊というような表現をしたようです。

 風は風邪とも書きます。風邪を引くとは悪霊を体内に引きこむことです。邪(じゃ)は「正しい道から外れていることやバランスを崩した感じの病気など」のことを意味する字です。

また、風は様々な意味を持ちますが、ここでは、旧約聖書の原語であるヘブライ語、その風(ルアハ)という言葉が持つ意味の一つである「霊」という意味に着目します。それで、風邪は正しい道から外れている霊とも解釈できて、風邪を悪霊とも呼べます。

 悪霊は新約聖書の原語ギリシャ語で「デーモン」あるいは「デモン」、「ダイモン」と言いますが、新約聖書にあるマタイによる福音書8章14~16節を見てみます。

「それから、イエスはペテロ(ペトロ)の家に入られるとペテロの義母(しゅうとめ)が投げ倒されたように熱に苦しめられているのを見られた。イエスは彼女の手を触(さわ)られた。彼女から熱が去った。そして、彼女は起き上れてイエスをもてなし始めた。それで、夕方になると悪霊に苦しむ多くの人がイエスのもとに連れて来られた。イエスは言葉でそれらの霊を追い出された。苦しんでいるすべての人を治療された。」

ここでのイエスの言葉は「言霊(ことだま)」と訳してみたい所でもあります。

また、同様の箇所をマルコによる福音書1章29~31節で見てみます。

「また、一行は教会堂を直ぐに出た。イエスヤコブヨハネを連れて、シモン(ペテロ)とアンデレ(ペテロの兄弟)の家に行かれた。そこでは、シモンのしゅうとめが熱に苦しめられ寝込んでいた。直ぐに彼女についてイエスに伝えられる。すると、イエスは彼女に近寄られて、彼女の手を取られて起こされた。彼女の熱は彼女から去った。そして、彼女は一行をもてなした。それで夕方になり日が沈むとイエスのもとに運ばれてきた。悪いところがある者や悪霊に苦しむ者たちみんなが。」

また、同様の箇所をルカによる福音書4章38~40節で見てみます。

「それから、イエスは教会堂を出られてシモン(ペテロ)の家に行かれた。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しめられていた。それで、イエスは彼女についてお願いをされた。するとイエスは彼女の枕元に立ち、熱を叱(しか)られた。すると、熱は彼女から去った。それから、直ぐに彼女は立ち上がって一行をもてなしました。

それから、太陽が沈むと様々に病んで弱っている人を抱えている人々がみんなイエスのもとに病人を連れて来た。それで、イエスは一人一人に両手を置かれて治療された。」

 病人の頭に両手を置く癒しの祈りが、キリスト教にはありますが、その原型を上記のイエス様の癒され方から思い起こします。また、イエス様に対する信頼感があったのでペテロのしゅうとめは直ぐに治ったのでしょう。イエス様を信じる者は救われます。

 

 

花嫁の父

                         ヨハネ・ヤジロー

 

 花嫁の父として経験をつい最近した。娘に結婚相手がいることを知ったのは去年のことだった。詳しい時期など覚えていない。ショックであったことは記憶にある。心理学の本を再読するなど、自分自身の心に生じた思いを正直に見つめた。時間がかかった。判断を自分の感情だけで行わないためだった。娘が結婚しないよりは結婚をした方が良い、と周囲の状況を見つめながら思うことにした。しかし、心の整理をするために聖書を読んだ。悟りのためではない。あきらめるためだ。自分自身で自分を説得するような作業だった。

 創世記2章18節にはこう書いてあった。

「主なる神は言われた。『人が一人でいるのは良くない。彼のために彼女を造ろう。彼と正面から向き合う助け手として。』」

正面から向き合う、という言葉は、ふさわしい、というような感じで日本語に訳されることがある。「ふさわしい」とは何かと知るために原語を直視した。すると「正面から彼と向き合う」という言葉(ネゲッド)から納得したことがあった。妻と夫婦喧嘩したときの妻の態度だ。妻の方が夫婦関係をぼくより理解している、と。そうすると、娘が選んだ彼氏のことも何となく理解できた。キリスト教の結婚式で、二人が向き合ってリング交換することも何となく納得した。儀式というのは本質を簡素に表現していると。

とにかく、結婚を認めてもらいたかったら(キリスト教の)教会で結婚しなさい、と娘に言った。すると、そういう結果になることで娘の結婚式を迎えた。バージンロードを歩く父親の気持ちをぼくは知った。そして、ぼくは花嫁の父となった。そして、ぼくは創世記2章24節を思い出した。こう書いてある。

「この故に、男は父や母を離れる。そして、女とくっつく。そして、一体となる。」

この一体は、文字通り読めば、肉体と肉体が一体となると読める。心が一体となるとは直接は読めない。それでよいと思った。人間とは間違える動物だ。一緒に間違えたら悲惨な運命が待っている。それよりは、正面から意見がぶつかるときがあっても良い。二人、一緒に道を間違えないために。そんなことを考えているとまたこうも思った。男に最もふさわしい相手は女だと。男と女は互いに向き合うものだ、と。一緒に道を間違えないための助け手として、男のために女はいるのだ、と。妻との間に生じる夫婦喧嘩の存在を妙に肯定した。

 しかし、喧嘩(けんか)ばかりしていては離婚が待っている。お互いに自分の意見を主張することも必要だが、お互いに辛抱(しんぼう)することも必要されるのが妥協。妥協(だきょう)は愛なのだ、と妙に納得した。男と女の間に勝ち負けはない。妥協という名の愛があるだけだ。その妥協という愛を美しい言葉で言えば、互いに愛し合う、という。その妥協のためには辛抱が必要だ。その辛抱には自分を犠牲にする気持ちが必要だ。自己犠牲という愛、その究極(きゅうきょく)の姿をイエス様の十字架に見た。礼拝堂の正面にある十字架を見つめてから祈るとき、祈りに効果があるように思えた経験もここから来るのだろうか。

 だけど、辛抱ばかりではトラブルは回避できても問題の解決までには至らないことが多い。そこで、解決のためには助けがいるものだ。その助けはどこから来るのだろう。親切という名の愛から来る。お互いに親切な気持ちとなり、助け合うときに問題が解決していったことを思い出した。そう、辛抱と親切は愛の両輪。第一コリント13章の要点を思い出した。

つまり、男と女はくっついて一体となるだけでは不十分で、互いに愛し合うことで、人生の道を歩いて行けるのかな、と思った。そうでも、思わなければ、花嫁の父となった事実を喜びに変えられようか。 

 前述の聖書の言葉は、ヘブライ語底本(ビブリア・ヘブライカ)を読みながらの確認であったので、少し、日本語としては、ぎこちない。