イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

過労死

                         ヨハネ・ヤジロー

 キリスト教の教会に日曜日に来る人々は休むために教会に来ている。

私の楽しい休み方は、教会から人が帰って行ったときにある。誰もいない礼拝堂で十字架を見上げる。瞑想(めいそう)をする。迷走であってもかまわない。祈りにならぬ祈りでもキリストの神様は聞いてくださる。その瞑想のときがほんとうの休みになる。

それは、教会堂が大きいことや美しいことも関係がない。小さな日本のごくありふれた民家であっても良い。

 日曜日(ユダヤ教では土曜日)を休日とするのは一般的だが、キリスト教では、その休日を安息日と呼ぶ。安息日を聖書の原語ヘブライ語ではシャバットという。それが動詞で使われると「休む、座る」とかいう意味に変化する。座って休めるように教会には椅子が置いてある。

 さて、テレビや新聞などで過労死という言葉を最近よく見聞きする。

過労死問題は何千年も前からある。そのこともあり、モーセに率いられたイスラエル人が集団でエジプトから脱走したほどだ。過労死に対処するためにユダヤ人の先祖であるイスラエル人はモーセを通して神様から戒め(十戒の一つ)を授かる。安息日の戒めだ。

それをヘブライ語を見つめながら、少し日本語らしくはないが、感じたとおりに日本語に訳してみた。出エジプト記31章12~17節だ。()書きの部分は読み替えなので参考のようなもの。

 

 主(我らの神ヤハウェ)はモーセにこのように告げられた。

「あなたはイスラエル人(イスラエルの子ら、子孫)にこのように語りなさい。

『必ず、私の安息日を守るのだ。代々(よよ)にわたり、私となんじらとの間の証印(しるし)なのだ。主なる私が、なんじらを聖とする方であると知るためだ。

なんじらは安息日を守るのだ。安息日はなんじらにとって聖なる日だ。安息日を汚すと死ぬ、死ぬのだ。(死刑になるのと同じだ。)安息日に仕事をする者はみんなだ。

その者の命は民の中から断たれるのだ。六日間、仕事はするものだ。そして、七日目は安息日だ。主による完全休養の聖なる安息日だ。安息日に仕事をする者は誰でも死ぬ、死ぬことになる。(死刑になるのと同じだ。)イスラエル人は安息日を守るのだ。安息日に休むのだ。代々にわたる永遠の契約として。

私とイスラエル人と証印(しるし)、それは永遠だ。それは、主が六日間で天と地を造られ七日目に仕事(みわざ)を休まれ休養されたからだ。』。」

 

休めない状態を奴隷という。奴隷には衣食住は与えられる。人はパンだけで生きているのではない。休めないでいると、心が殺され体まで殺されて行く。そして、奴隷に衣食住を与えている側は長生きをする。十分に休養する余裕があるからだ。アダムとエバの時代に格差があったのか、と 叫ぶ人たちが増えるといけない。社会問題が大きくなると戦争状態に突入していくことになる。そうならないことを祈ります。