イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

三位一体

 

                  ヨハネ・ヤジロー

 三位一体はキリスト教の神様のイメージの代表的なものですが、古事記を思い出すことがあります。

それは、三位一体は三つのモード(機能形態)が神様にはあるよという意味で、つまり、天の父と神の子(イエス・キリスト)と聖霊の三つのモードを一人の神様は持っておられるということなのですが、この一人の神様を独(ひと)り神とも表現できます。

その独り神が古事記の初めに出てきます。こうです。

「天地の初めてひらくるとき、高天原になれる神、その名はアメノミナカヌシの神、タカミムスヒの神、カミススヒの神、この三柱(みはしら:柱は神様を数えるときの数え方)は神はみな独り神なりまして,隠れ身なり。」

何となく三位一体を連想させます。アメノミナカヌシは天のみ中主と書けますように天の中心となる神様つまり天の父、その左と右の神が聖霊イエス・キリストという神様というように。そのように三位一体のようなイメージを神様に我々日本人は持っていたのでしょうか。古事記は8世紀の初めころに書かれた書物ですが、天地創造あたりが書かれた箇所は紀元前9~8世ごろと思われ新約聖書時代は1世紀、つまり、聖書の影響が古事記にもあったのではないかと想像するのは楽しいものです。

 でも、古事記は日本人が神を複数(神々)と捉えていたことを述べていて一神教キリスト教とは違うと思う人もいるでしょう。

 それでも、聖書の初めの言葉はこうです。

「天地を初めに大御神(おおみかみ)は造られた。地は姿形がなかった。闇が原始の海を覆っていた。大御神の霊がその水面の上を舞っていた。」

神様を大御神と私は訳しましたが原語はエローヒムつまり神々と訳せる神の複数形です。

でも、この場合「造られた」という動詞が単数形ですので、神々は大御神、つまり、偉大な神様と訳すべきでしょう。単純に神とも訳せますが、それでは「神々」と原語に記された神様の重みが訳せてはいない気がします。この神様は天地創造の神様ですから一番偉大な神様です。つまり、キリスト教の「天の父」に相当する方です。天の父は偉大なので神々を大御神と私は訳しました。

 その天の父の大きさをイエス様はこう言われました。

「天は神様の御座(みざ)、地は神様の足台」(マタイによる福音書5章34,35節より抜粋)

それで、天の父は大御神とも書けると思います。また、大御神の霊とあるように天地創造のとき、最初に出てくるのは姿形が目に見えない霊が大御神の最初のモード(聖霊)です。神はみな独り神で隠れ身つまり「人間の目では見えない独り神」なのです。

天の父はイエス様の言われるように大きすぎて見えない。霊も見えない。それで、直接、人間の目に見える姿形で現れるモードがイエス・キリストなのです。人が神様を理解するうえで理解しやすいモードがイエス様です。そこに神様の愛があります。

そして、人の行いや祈りを人に隠れて(隠れ身で)見ておられます。