イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

最後のアダム

 最後のアダムという言葉は、聖パウロが書いた第1コリント15章45節にある言葉です。こうあります。

「(聖書に)『最初のアダムは命を授けられた』と書いてあるでしょう。最後のアダムは命を授ける霊となったのです。」

 最初のアダムは誰もが知っている通り、天地創造のときに神様が造られた最初の人アダムです。それで、アダムは人の名前にも使われますが、その意味は多様です。

「人、人間、人類、ある人、だれか、男、人類の始祖、神様がつくった最初の人、最初の神の子」などです。少し、主題からずれますが、日本人には興味深いことなので、書いてみます。アダムと同じ語源の言葉に土(アダマ)、赤い(アドム)という言葉があります。埴輪(はにわ)を連想しませんか。アダムはアダマのチリ(最小粒子)から神様は形つくられ、その鼻に命の息を吹き込まれてアダムは生きた人間となったと書かれているからです。旧約聖書の最初にある創世記にある記述ですが、創世記はユダヤ教イスラム教でも聖典です。しかも、その起源は文字になる前の言い伝えによるらしくてアジアにある日本も言い伝えの影響があるのでしょう。日本も聖書の世界の文化や伝統の中に古代からいると思います。神社の中には、偶像や仏像に相当するものは何にもない。神様が降臨される場所ですから人が造った像を置く必要がない。その降臨される神様と会える人は神主です。聖書では神殿の祭司。神殿も神社と同様に仏像などない。

神様が降臨されて祭司と会見されるからです。

 さて、本題に戻ります。アダムには「最初の神の子」という意味もあるのです。

創世記を読めば、神様が最初に造った人だから、確かに「最初の神の子」です。

キリスト教では「神の子」といえば「イエス・キリスト」です。

でも、それは、我々、一人一人の人間を救う神の子という意味の「神の子」なのです。

ここで、一人にこだわるのは、最初の神の子、一人の人によって人類に死がもたらされたからです。食べれば死ぬという禁断の実を取って食べたからです。神様の戒めを破るという罪の結果が死なのです。それで、キリスト教では、死の罰から人を救うには、一人の人の罪によるのだから、一人の人の犠牲(くだけた表現をすれば、禁断の実を食べた罰から救われるには、すなわち、損害賠償をして罪なしとして死から救われるには、一人の人の罪なのだから、一人の人が同等の損害賠償の負担をすれば良い。死には死による損害賠償です。十字架による贖(あがな)いの犠牲と言います。)

これが、イエス・キリストの十字架の死の価値(救いの御業)です。イエスの愛の最高レベルの象徴が十字架です。

 それで、イエス・キリストが無実なのに十字架という最も惨めな死罪となったのは、最後の神の子すなわち最後のアダムとして、人を死から救うためだったのです。

 聖パウロは第1コリント15章44~57にはこのように書いています。()書きは私のつたない補助説明です。

「(やがては朽ちて死すべき)肉体の種としてまかれた体が、霊の体としてよみがえるのです。肉体があるなら霊体もあるのです。

『最初のアダムは命を授けられた』と(聖書には)書かれてあるでしょう。最後のアダム(神の子イエス)は、命を授ける霊となったのです。

霊が最初に存在したのではありません。肉体、その命が先で、次に霊です。

地の土から最初の人(アダム)がいて、天からの人(アダム)がいるのです。地上の人は土の人たちのようであり、天上の人は天上の人たちのようなのです。

我らは地上では土の人のようなのですが、天上では天上の人のようになるのです。

それで、こう言うのです。兄弟(はらから)よ、血肉は神の国を相続できません。

朽ちて滅びるものは、朽ちないものを相続できません。

注目してください。神秘(救いの奥義)をあなたたちに語りましょう。

永眠しないのです。みんなは変えられるのです。一瞬のことです。

最後のラッパのとき、ラッパが吹かれると死者たちは眠りから覚めて起き上がるのです。不死の者たちに我らは一変させられるのです。

この朽ちるべきものが、朽ちないものを着るようになるのですから、この死すべきものに死なないもの(不死)を着せるのです。

それでいつかは、この朽ちて行く体が、朽ちないものとなるとき、この死すべき体は死なない(不死の)体となるのです。そのとき(聖書に)書かれた言葉が成就するのです。

『死は勝利に飲み込まれた。死よ、どこにある、汝の勝利、死よ、どこにある、汝のとげ(毒針)』

それで、死のとげとは罪のこと、罪の力とは戒め。それで、神様に感謝!勝利の恵みを我らに与えられている。我らの主イエス・キリストにより。」