イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

風と悪霊

 「病(やまい)は気から」という言葉があるように心と体の関係は連動しています。心が病気になると体も病気になりやすい。また、体が病気になると心も病気になりやすいものです。最悪は両方ともに病気が進行することです。それで、薬でも飲んで、強制的に体を休めて、つまり、ぼおっとしたしたような体の状態に持っていて、自然治癒力に頼ってみるという方法が取られることがあります。心が主な原因だとかかっている病気はなかなか良くならないものですが。

しかし、今の科学や技術はデータを取ることを基本としているため、どうしても、データが技術的に取りやすい所からデータを取り、そのデータをもとに物事を考えます。

心が原因の場合は、医者との信頼関係が弱いと患者は恥ずかしくて言えないようなことが言えないため、思い出したくないことを思い出せないため、それに、原因がわかったところで、そのため、ひどく悪化する場合もあります。

そのため、一部のデータだけに頼り、木を見て森を見ずということになると、肝心な点から外れて、判断を間違えることもあります。意図的に人々をある目的に誘導しようとするデータのとり方は政治や行政の世界ではありがちですが、これは、詐欺ですから、ここでは考えません。 

すると、2千年ほど前に生きていた新約聖書時代の人々は、悪霊という言葉をどのように使っていたのだろうかと思いました。

風邪(かぜ)は万病のもとと言いますが、この風邪にかかることを悪霊に取りつかれるというような表現をしていたようです。しかも、昔の人々は心と体と分離して考えず、つまり、データ主義の副作用がなかったために、風邪とか悪霊というような表現をしたようです。

 風は風邪とも書きます。風邪を引くとは悪霊を体内に引きこむことです。邪(じゃ)は「正しい道から外れていることやバランスを崩した感じの病気など」のことを意味する字です。

また、風は様々な意味を持ちますが、ここでは、旧約聖書の原語であるヘブライ語、その風(ルアハ)という言葉が持つ意味の一つである「霊」という意味に着目します。それで、風邪は正しい道から外れている霊とも解釈できて、風邪を悪霊とも呼べます。

 悪霊は新約聖書の原語ギリシャ語で「デーモン」あるいは「デモン」、「ダイモン」と言いますが、新約聖書にあるマタイによる福音書8章14~16節を見てみます。

「それから、イエスはペテロ(ペトロ)の家に入られるとペテロの義母(しゅうとめ)が投げ倒されたように熱に苦しめられているのを見られた。イエスは彼女の手を触(さわ)られた。彼女から熱が去った。そして、彼女は起き上れてイエスをもてなし始めた。それで、夕方になると悪霊に苦しむ多くの人がイエスのもとに連れて来られた。イエスは言葉でそれらの霊を追い出された。苦しんでいるすべての人を治療された。」

ここでのイエスの言葉は「言霊(ことだま)」と訳してみたい所でもあります。

また、同様の箇所をマルコによる福音書1章29~31節で見てみます。

「また、一行は教会堂を直ぐに出た。イエスヤコブヨハネを連れて、シモン(ペテロ)とアンデレ(ペテロの兄弟)の家に行かれた。そこでは、シモンのしゅうとめが熱に苦しめられ寝込んでいた。直ぐに彼女についてイエスに伝えられる。すると、イエスは彼女に近寄られて、彼女の手を取られて起こされた。彼女の熱は彼女から去った。そして、彼女は一行をもてなした。それで夕方になり日が沈むとイエスのもとに運ばれてきた。悪いところがある者や悪霊に苦しむ者たちみんなが。」

また、同様の箇所をルカによる福音書4章38~40節で見てみます。

「それから、イエスは教会堂を出られてシモン(ペテロ)の家に行かれた。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しめられていた。それで、イエスは彼女についてお願いをされた。するとイエスは彼女の枕元に立ち、熱を叱(しか)られた。すると、熱は彼女から去った。それから、直ぐに彼女は立ち上がって一行をもてなしました。

それから、太陽が沈むと様々に病んで弱っている人を抱えている人々がみんなイエスのもとに病人を連れて来た。それで、イエスは一人一人に両手を置かれて治療された。」

 病人の頭に両手を置く癒しの祈りが、キリスト教にはありますが、その原型を上記のイエス様の癒され方から思い起こします。また、イエス様に対する信頼感があったのでペテロのしゅうとめは直ぐに治ったのでしょう。イエス様を信じる者は救われます。