愛は礼を失わず私利私欲に走らず
聖パウロは第1コリント13章5節で語ります。愛は礼を失わず私利私欲に走らず、と。この愛も、様々な背景を持つ人々の集団生活における愛について語っています。
日本の場合は、比較的広く、この愛は行われているようです。それでも例外的な場面を見るのはプロのスポーツ観戦のときなどです。無礼が赦される雰囲気があるのでしょうか。自己制御をしなくてよい雰囲気の場を設けることに価値が見出されているのでしょうか。何しろ、プロのスポーツ観戦はお金を払ってみるものですから。
家族や親族の中で私利私欲に走り無礼を働くと大変です。遺産相続のときで、その財産が大きければ大きいほど、この愛は守られにくくなります。
プロスポーツの世界は勝てば勝つほど評価されます。独り勝ちする者はヒーローですが、家族や親族の中では独り勝ちは危険です。友人などとの関係もそうです。この愛を行わないでいると、気が付けば、孤独な自分の存在に気が付きます。
それで、プロスポーツの世界で成功した人が、離婚をすることがあるのも、結果を出すために自分中心の生活習慣を身に着けたことが原因となっていることがあります。
たとえば、女性は赤ちゃんができると優先順位の一番目は、夫より赤ちゃんになるのは自然なことですが、プロの世界で身に着けた自分中心の生活習慣が災いをします。
出世のために仕事などで身に着けた生活習慣は、仕事などでは有利になる場合が多くありますが、自分の家族におけるトラブルや病気そして離婚の原因とかになりやすい。そのことに気が付く言葉の一つが、愛は礼を失わず私利私欲に走らず、です。
愛は自慢しない、誇らない
「愛は自慢しない、誇らない」とは、イエス・キリストの愛の一つの側面を表現した言葉です。(第1コリント13章4節)原語のギリシャ語の語源を見てみますと「自慢する」は「うぬぼれが強い」という言葉から来ています。「誇る」は「ふいご」もありますが「生まれ、家系、出身」などという言葉からも来ているようです。
誰でも、自慢したり、誇ったりした経験はあると思います。たとえば、美しい娘や息子の親だとします。どうしても自分の子を自慢したり、誇ったりする感情が起きます。このことが問題になるのは集団生活をしているときです。大きな集団になればなるほど、生まれや育ちの違いが多種多様になります。気を付けていないと差別という深刻な問題を引き起こします。差別はあらゆる悲劇の原因となりやすい。
イエス・キリストが自ら伝道されたパレスチナは多民族・多言語社会です。また、古代文明の交差点でもあります。ギリシャ文明、エジプト文明、メソポタミア文明です。
特にイエス様が育ったガリラヤ地方は移住などで異邦人の地ガリラヤと呼ばれたところです。そのような所で集団生活していくには「自慢しない、誇らない」という愛が必要だったのです。これは、極東にある日本でも交通機関の発達により同様です。しかも、少子高齢化が進む日本では外国人の受け入れは必然です。私が住んでいる地域でも外国人の子供たちをよく見かけるようになりました。昔は東アジア系が多いので、一見、日本人と見分けがつかないことが多かったのですが、今はそうでもなくなってきています。
それで「愛は自慢しない、誇らない」という言葉を身近に感じるようになってきました。この言葉の前にはこのような言葉があります。
「もしも、異なる言葉や天使の言葉で私が語れようとも私に愛がなければ私は単に鳴る鐘やシンバルとなる。もしも、予言ができても、あらゆる奥義や知識を得ていても、山を移すに十分な信仰があろうとも私に愛がなければ私はいてもいなくてもよい存在となる。もしも、全財産を施しても誇りのために全身を捧げても私に愛がなければ私は何の役にも立たない。愛はすぐ怒らず親切で情けがある。愛はひどく妬まない。」
ヨハネ・ヤジロー
愛はひどく妬まない
聖パウロは第1コリント13章で言います。
「愛は(すぐ怒らないで)長く耐え忍び(情け深く)親切」と述べてから「愛はひどく妬(ねた)まない」と続けます。
この「ひどく妬まない」という言葉は「妬まない」と単純に訳されることもある言葉ですが、人は妬むものです。妬むのは仕方がないとしても「ひどく妬む」と事件になりやすいものです。2千年前、ユダヤ人指導者たちはイエス様の人気を妬んで、それも、ひどく妬んだので、イエス様を十字架に架けたのです。男の妬みは事件になりやすい。
今の日本でも・・・つい最近のことですが、人気のある貴乃花親方のことです。
相撲協会の指導者たちは妬みの感情でやりすぎている気がしてなりません。人間は誰でも大なり小なり過ちを犯すことがあります。だけど裁くのは難しいものです。神様以外に正しく裁ける方はいません。
また、妬みがひどいと処罰感情が行きすぎます。このようなことを指導的な立場の人たちがしていては相撲を見る人が少なくなるかもしれません。愛がない、と負の連鎖が続きます。何とか愛をのある、情けの有る結果を待ち望みます。本当に、結果的に行き過ぎないことを祈っています。
愛は親切で情け深い
イエス様の愛(キリストの愛)を聖パウロは第1コリント13章を中心に述べています。この愛の大切さを述べる前に聖パウロの頭にあったのは、教会内の人間関係の問題です。それは、第1コリント(コリントの信徒への手紙一)を読めば・・・古今東西どこにでもある人間関係の問題です。
最近、どこかの国の協会それも複数の協会で問題があることが暴露されていますが、人間関係の問題から組織的な問題になる、または、組織の問題が暴露されることがよくあり、そのようなことで、集団内部の人間関係に悩み苦しんだ経験は誰でもあると思います。
人が集団を形成すれば、争いが生じるものです。これは避けられない。人には個性があり、人生経験も様々ですし、育った背景や人間関係にも違いがあるので、ものの見方や考えに相違があるのが当然で、人は過ちを犯すものですから、争いは生じるものです。
それで、キリスト教では愛が一番大切と説くのです。その愛は半端なものではありません。イエス様の「なんじの敵を愛せ」という言葉に集約されるからです。これは、実際問題として、なかなかできなかった経験が誰にでもあると思います。書いている本人もそのような経験があります。まして、敵の用意した十字架にかけられる究極の「敵を愛する愛」など・・・・。私は十字架にかけられたくないと逃げた経験があります。
でも、「すぐ怒らない」ことなら誰にでもできそうな愛です。頭に血がのぼるといいますか、急に熱くなるというか、「かっとなる怒り」が生じた経験は誰にでもあるでしょう。
この怒りは自己制御が難しいものです。失敗につながりやすい怒りです。それで、聖パウロは、愛とは「怒るのが遅い」つまり、「すぐ怒らない」で辛抱することだ、と述べ、次には「親切で情け深い」と述べます。「親切で情け深い」と原語から訳さずに「情け深い」とか「親切」と別れて訳される言葉でもありますが、本当の親切は情けがなければできないものです。それも慈悲深い気持ちが必要なときがあります。
カッとなると報復をしたくなるものですが、少しクールになって状況判断をして相手が喜ぶ親切な行いで返すことができれば、悲劇は避けられます。そして、仲直りとなれば、良い協力関係が築けて、人間が集団生活をしている効果が最大限発揮できるようになります。
愛はすぐ怒らないで親切で返すものです。情けがある、とはそのようなものです。
このような愛は本当の勇気や忍耐が必要なときがあります。
ヨハネ・ヤジロー
愛はすぐ怒らない
イエス様の愛つまりキリストの愛で一番目に来る特徴は第1コリント13章4節にある「すぐ怒らない」ことです。直(す)ぐ怒らない、と英語や日本語では訳されていない場合が多いので、日本語訳聖書では見当たらないかもしれません。ですが、世の中で一般的に多くなされている愛ある行いでは「すぐ怒らない」という行いです。
既存の聖書では直ぐ怒らないと訳すよりは、長く耐えとか辛抱、忍耐と訳すことが多いのですが、また、寛大とも訳せるでしょうが、現実的な行いとしては「すぐ怒らない」という行いです。それは、キリストの愛ですから、真に強い愛です。そのような愛は、弱者の辛抱や忍耐と似て非なるものなのです。真の強者の愛というもの第一の特徴は「すぐ怒らない」ことです。原語のギリシャ語では「長い時間を置いてから怒る」といいますか「執行猶予期間を置いてから怒る」というイメージで、「愛は怒るに遅い」とも訳せますか。それで、イエス様の愛は「すぐ怒らない」のです。忍び難きを忍ぶ愛とは似て異なります。ただ、長く辛抱や忍耐しているだけでは病気になりますから。
では、真の強さとは何かといいますと「死に打ち勝つ強さ」です。それは、イエス様が十字架にかけられ死なれてから三日目に復活されたことに代表される強さです。
辱められても、なぶり殺しにあっても、復活される不死身の強さです。弱者の辛抱や忍耐ではありません。真の強者の忍耐だからこそ、すぐ怒らないのです。
中途半端に自分の強さに自信のある人は「すぐ怒る」ものです。
本当に強い人こそ「すぐ怒らない」ものです。そこにイエス様の愛があります。
最終的に怒られるときは最後の審判のときです。その裁きの日の主はイエス様です。
その日までには回心や改心などしておく必要があります。確実に怒られますから。
ヨハネ・ヤジロー
仲直り
日本古来の宗教とキリスト教の違いは何か。歴史に書かれた事実、それも、キリスト教徒による残酷な行為を知らされている日本人には信じがたい違いかも知れない。
また、隠れキリシタンを生んだ日本の暗い歴史的な事実。そのため、イエス様の説いた教えが、多くの日本人の耳に入ってこないようになっている気がしてならない。
その違い、つまり、キリスト教の美しさは「仲直り(なかなおり)をしましょう」というメッセージにある。
これは、第一には「神様と人との仲直り」、第二は「人と人との仲直り」である。
裁判で使われる和解よりもはるかに広い意味を持つ和解が、この仲直りである。
裁判での和解(わかい)は、金による妥協(だきょう)のように思える。実務上、狭く限定した範囲で行われないといけない、つまり、人間の行う裁判なのだから、仕方のないことなのだろうけど・・・真実は覆い隠されたままに・・・人の寿命には限りがあるから・・・妥協して、残りの人生を前向きに生きていく。そうは言っても、人間の肉体が生きていくために必要なパンを得るだけのような金銭による和解。
何か欠けている。愛が欠けている。本当の愛が欠けている。本当の愛とは何か。
それが、仲直り。過去の事実は消せない。しかし、過去の過ちや負債、つまり、罪は消せる。水に流せる。水に流して暖かい信頼関係をつくって行く始まりが仲直り。
男と女の関係は「仲直り」という愛がなければ、いつかどこかで、別れが待っている。
親兄弟もそうだ。ケンカは起こるものだ。仲直りがなければ、死ぬまで別れたままになりやすい。
神様と人間の関係は永遠だ。神様の方はいつも「仲直り」をしたいと人間のそばで人間を待っておられる。ただ、神様はそばにおられても見えない。信じれば見えてくる。
ここいら辺が、日本古来の宗教とキリスト教の違いだ。
猿(さる)も人間も神様が造られた。猿は身にまとうものが要らない。毛皮が生まれながらにしてある。金も要らない。頼るのは神様が造られた自然環境だ。自然環境に不足があれば、人間の作った世界に現れるが、基本、それなりに完成されている生物だ。
人間は猿に似ているが非なる存在だ。そう、人間は裸で生きていけない。最初に人間が作ったのはイチジクの葉をつづった腰みのだ。恥ずかしい、と思ったからだ。エデンの園(楽園:エデンとは楽しみというような意味)での出来事だ。善悪を知るとは、恥ずかしいという意識を持つことでもある。この意識がなくなれば、人間と猿との境界はなくなって来るかも知れない。
では、善悪とは何か。神様の教えや戒め、つまり、諭し(さとし)に従うことを善と呼び、従わないことを悪と呼ぶのだ。そうすると、正直に自分自身を見つめると、善も悪も行う自分が見えてくる。偽善が最もたちの悪い悪だけど・・・とにもかくにも人間は悪いことをする。そのとき、人間はエデンの園から追放という罰を受ける。天罰だ。
悪といっても小さければ小さいほど引き返しやすい。どこにか、エデンの園だ。大きくても引き返せる。引き返したい、と思えば、それは、仲直りの始まりだ。そのとき、必要なのは神様を信じる気持ちだ。これをキリスト教ではイエスをキリストと信じる信仰と言っている。キリストとはメシア(救世主)という意味。
そして、引き返せば、引き返しただけで仲直りは成立する。神様は引き返した人間にかけより抱いてくれる。
ヨハネ・ヤジロー
χαρισμα(カリスマ)
カリスマ(χαρισμα`)はギリシャ語に由来します。もともとは、贈り物の意味です。その最上のものは天からの贈り物、つまり、神様からの贈り物です。賜物(たまもの)と短く言うことがあります。また、日本人がよく使う使い方のカリスマの意味もあります。文脈で判断するしかありません。神様からの授かりものだけは個人の努力で得られるものでありません。スポーツや歌、芸術などから見てもわかるように明らかに神様からの授かりものがなければ、結果が人の心を打たない・・・そのカリスマは誰もが知ることですが。
カリスマの中で誰もがもらえる最高のものは「永遠の生命」。神様からいただく最高の贈り物です。新約聖書は、そのカリスマを中心に語られます。その対極の位置にあるのが労働などによる報酬です。食べなければ肉体は生きていけません。やがては死んでいく肉体のためにもらうお金などと対極的な位置にあるのがカリスマです。
カリスマはカリス(恵み)から来ている言葉です。アメージング・グレースのグレース(グレイス)です。だから、個人の力では得ることのできない天からの贈り物、それが、カリスマです。
また、勲章などもカリスマです。そのようにカリスマの意味は広いけど限定されています。
また、犯した過ちや罪が赦(ゆる)されること、恩赦もカリスマです。
特に神様から赦されることが恩赦の中で最高の賜物です。身近な人や他人が赦していなくてもかまわない。神様が赦された人を赦さない人がいれば、その赦さない人は神様から罪人とされるほどの力のあるカリスマです。イエス様からのカリスマは犯した罪や過ちが赦されることです。イエス様がキリスト(救い主)と頼られる所以です。
それ以外で、誰もが持っているカリスマがあります。探せば、誰でも、どこか良いところがあるものです。それもカリスマです。そのよい所(カリスマ)を認め合って互いに助け合って行きましょう、と聖パウロは第1コリントなどで述べています。
最近、会話がまともにできないダウン症の男の子のカリスマを見ました。知らない若者(男性)が女友達と教会に来ました。当然ですが、教会の人々に対して距離感を持っています。しかし、そのダウン症の男の子は、その若者にニコニコしながら近寄り肩に手をまわしたのです。誰もがマネのできない歓迎の仕方でした。周りの緊張感が解けてフレンドリーな雰囲気を作る行動でした。これもカリスマです。教会では宣教師などに求められる行動が、そのダウン症の男の子は簡単に誰よりも先にできたのです。会話などまともにできないのに。愛とは何かと教えられる行動でした。
教会も組織です。誰もが何かしらのカリスマを持っています。そのカリスマを互いに出し合っていくとみんなが明るく生き生きとしてきます。暖かい血の通った組織になります。逆に、あの子はダウン症だから人前に出すな、というような組織であれば、人が一人二人といつの間にか去って行く組織と成って行くでしょう。
必要とされていない人はいない、と聖パウロはカリスマから説きます。
ヨハネ・ヤジロー