イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

イエス・キリストの系図

 

余はいかにしてキリスト信徒となりしか (岩波文庫)

余はいかにしてキリスト信徒となりしか (岩波文庫)

 

 

 ホームページ「イエスの愛~ヨハネ・ヤジロー」は、今はありません。作成中で思ったよりも時間がかかっているからです。

 その作成中の最初に思ったことがあります。出自のことです。新約聖書はマタイによる福音書から始まります。その書の初めはイエス・キリストの系図から始まります。

 言い伝えによれば、マタイによる福音書を記したとされるマタイはユダヤ人でイエス・キリストの12使徒の一人です。

出自というのは知られたくない人もいるものです。差別に利用されるからです。でも、マタイは何故かイエス・キリストの出自から書き始めたのです。正式に認められている福音書は他に3つありますが、その一つ「ルカによる福音書」以外にイエス・キリストの系図は記されていません。しかも、全く同じ系図ではないのです。

 書き方も正反対で違いもかなりあります。ルカはユダヤ人ではありません。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。ルカは異邦人から見た観点です。「人はみんな神様の子だ。神様から造られた人アダムに出自は遡れるのだから人の出自は皆は同じだ」と系図で述べます。ルカによる系図は革命的です。出自を問わないからです。

 一方、マタイはイエス・キリスト(イエス様)の出自をアブラハムから始めます。ユダヤ人の歴史はアブラハムから始まるからです。ユダヤ人の多くは伝統を重んじるのでアダムや神様まで出自を遡れば、ユダヤ人の選民思想が否定されかねない。そのような系図をマタイはユダヤ人として書けなかったのかも知れません。しかも、マタイは福音書をイエス様の系図から始めています。

 では、イエス・キリスト自身はご自分の出自についてどう思っていたでしょうか。その直接の言葉ではないのですが、イエス・キリストは「ダビデがキリスト(メシア、救世主)と呼んでいるのに(祈っているのに)どうしてキリストがダビデの子なのか」と言われました。つまり、ダビデの子(子孫)という出自によらなければキリストではないという狭い枠内でキリストを考えることをイエス・キリストは否定されました。

 イエス様がお生まれになったとき、ヘロデ王は自分がダビデの血統でないことに極端な不安をユダヤ人の伝統主義から覚えて、ベツレヘムやその周辺の赤ちゃん(男子1才以下)を皆殺しにしました。これは、ヘロデ王が、ユダヤ人の王でありながら、その出自によりユダヤ人たちから差別されていると感じたことが大きかったと思われます。

 イエスの愛、その愛と反対の位置にいるのが出自による差別です。