イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

誰でも過労死の危険

                         ヨハネ・ヤジロー

 誰でも過労死をする危険がある。交通事故で死人が出るのと同じだ。

これは、世界共通の危険で古代からある。つまり、奴隷が存在したときからだ。

古代の戦争の目的は単純だった、と歴史の先生が言うのを学生時代に聴いた。

つまり、戦争に負けた方が奴隷になるのだ。勝った方は自由人だ。「自由か、しからずんば死を」という戦争だった、という。それに類似したことは今も世界中である。

 しかし、人間の本能は自由を求める。本能だけでは、常に生死をかけた戦いが延々と続く。それで、戦争の悲惨さを知る孔子は、礼とか様々な徳を説く。衣食住足りて礼節を知る、ということで何千年にもわたり、奴隷の待遇改善がはかられてきた。

 勝者がいれば敗者がいる。敗者にきつい、汚い、危険な仕事が来るものだ。つまり、敗者は常に過労死の危険にさらされている。病気になりやすい。つまり、過労が引き金になって死んでいくのだ。奴隷は一定の確率で過労死をするようになっている。自殺よりは病死が多いだろう。

 最近の日本では、外国人労働者をよく見かける。それで、それに関する法改正がなされるが、これは外国人を日本人と対等に扱わないですむ法、つまり、外国人を堂々と奴隷扱いできる法律だ。先進国と名乗れない法だ。恥ずかしくないのだろうか。

 しかし、もっと恥ずかしいのは、それに気が付かない日本人が多いことだ。それは、日本人の多くが奴隷として扱われることに千年単位でならされてきているからだ。これは、スレイブ・メンタリティーといって、奴隷としての精神構造をいつのまにか、気が付かないで持っているのだ。日本人は奴隷扱いを受けることになれされているのだ。

 それで、「何々をいつまでにしなくていけない」、「何々はこうしなければならない」という「何々せねばならない」という精神構造で過労していくのだ。その最終ゴールに過労死がある。大体、多くの場合、何らかの病気になって死なないものだが、数学でいう確率では、過労死はその最終ゴールだ。他人ごとではない。身近な問題だ。

 過労死問題で、モーセに率いられたイスラエル人が集団でエジプトから脱走したほどだ。その集団脱走を防止するために、江戸時代かな?今のお墓の制度が造られた。

現代の中国では、都市の戸籍と農村の戸籍だ。中国の農村の人々は明らかに奴隷として扱われている。日本はまだよい。檀家制度が崩壊してきている。お墓の概念が崩れだしてきている。日本人の中では奴隷制度の一つが崩壊してきている。しかし、新たな奴隷制度を貧しい外国人を対象に適用しようと新たに法律を作るのはスレイブ・メンタリティーが、伝統的に日本人の心の中に深く浸透しているからではないか。

 イエス・キリストの福音とは奴隷解放の良き知らせでもあるのだ。真理や真実は人を自由にするのだ。本当のクリスチャンとは自由人だ。奴隷ではない。

しかし、クリスチャンの中にスレイブ・メンタリティーを持った人々はかなりの数で日本にいる。このため、日本でクリスチャンになる人が少ない。教会に来ても奴隷扱いではやってられない。奴隷から解放される場所こそが、イエス・キリストの教会でなければならないのだ。

 もっとシンプルに宣べる。

安息日を守ろう!」

 安息日に教会に来て、奴隷のように奉仕をするな、働くな!そんなことをするのは偽クリスチャンだ。教会に来て過労死をするクリスチャンがいた。こんな教会が、どうして、イエス・キリストの教会なのだ。奴隷解放をしてこそ、イエス・キリストの教会なのだ。だから、日本で神様はクリスチャンの数を増やされないのだ。

 過労死に対処するためにユダヤ人の先祖であるイスラエル人はモーセを通して神様から戒め(十戒の一つ)を授かる。安息日の戒めだ。

出エジプト記31章12~17節にある(ヘブライ語テキストからの私訳)。

 主(我らの神)はモーセにこのように告げられた。

「あなたはイスラエル人(イスラエルの子ら、子孫)にこのように語りなさい。

『必ず、私の安息日を守るのだ。代々(よよ)にわたり、私となんじらとの間の証印(しるし)なのだ。主なる私が、なんじらを聖とする方であると知るためだ。

なんじらは安息日を守るのだ。安息日はなんじらにとって聖なる日だ。安息日を汚すと死ぬ、死ぬのだ。(死刑になるのと同じだ。)安息日に仕事をする者はみんなだ。

その者の命は民の中から断たれるのだ。六日間、仕事はするものだ。そして、七日目は安息日だ。主による完全休養の聖なる安息日だ。安息日に仕事をする者は誰でも死ぬ、死ぬことになる。(死刑になるのと同じだ。)イスラエル人は安息日を守るのだ。安息日に休むのだ。代々にわたる永遠の契約として。

私とイスラエル人と証印(しるし)、それは永遠だ。それは、主が六日間で天と地を造られ七日目に仕事(みわざ)を休まれ休養されたからだ。』。」